アルブレヒト・フォン・ブランデンブルク(1490-1545)
○選帝侯在位1514-1545、カルロス選出時年齢29歳。
ブランデンブルク選帝侯を代々務め、やがて近代ドイツ帝国の皇帝を輩出する
名門貴族「ホーエンツォレルン家」の出身。後に枢機卿となる。
同時代のブランデンブルク選帝侯であるヨアヒム1世の弟である。
マインツ大司教は、7人の選帝侯のリーダー格であるドイツ大書記官長(神聖ローマ帝国宰相、皇帝家臣の最高位)の地位にある。
そんな重要な地位である大司教の座を彼が手に入れたのは、なんと24歳の時!有力諸侯の出とはいえ、若造が簡単に手に入れられる地位ではない。慣例を破る大出世を可能にしたのは「金の力」。地元ドイツの銀行家フッガー家からの融資を受けてローマ法王庁に納めたのだ(12,300グルデン=推定6億1,500万円*1)。そして、その担保としたのは、当時の法王庁(教皇はレオ10世)がサン・ピエトロ大聖堂建立のため販売に乗り出そうとしていた「贖宥状」の、ドイツ国内における販売手数料収入であった。そのため、アルブレヒトが大司教となった後に領内で贖宥状販売に乗り出したその売場では、常にフッガー家の番頭がついて回ったという(*2)。果たして本当に「ご利益」があったか疑わしい贖宥状だが、ドイツ国内で爆発的な売り上げを誇り、それはやがて、マルティン・ルターが始める宗教改革運動の導火線に火をつけることになる。1517年10月に発表されたルターの「95箇条の提題」は、まさにアルブレヒトに宛てて書かれていたのである。
*1 マインツ大司教が法王庁に納めた初穂税額は「皇帝カール5世とその時代/瀬原義生著」による。
また、日本円換算は「デューラー ネーデルラント旅日記/前川誠郎訳」の解説中の1グルデン=約5万円による。
*2 「皇帝カール5世とその時代/瀬原義生著」による。
皇帝選挙の際には、兄のヨアヒム1世とともに早くからフランス側の接触を受けており、法王庁からもフランソワ王選出の暁には、アルブレヒトを教皇特使とする約束がされていたようだ(*3)。しかしながら、最終的にはカルロス側からの巨額買収(113,200フローリン=なんと56億6,000万円!!、各選帝侯中最高額。*4)に傾き、カルロスへ1票を投じた。
*3 「鷲皇帝、カルロス5世/有吉俊二著」による。
*4 フッガー家による選帝侯買収額は「皇帝カール5世とその時代/瀬原義生著」による。
また、日本円換算は1フローリン=1グルデンとして計算。
ひたすら金の話ばかりが付きまとい、「生臭坊主」を地で行くアルブレヒトだが、その莫大な資金力を背景に、北方ルネサンスの芸術家のパトロンという一面も持っていた。クラーナハ、グリューネヴァルト、そして晩年のデューラーが、彼の肖像画をモチーフにした絵画を制作している。(冒頭の肖像画は、デューラーの銅版画「アルブレヒト・フォン・ブランデンブルクの肖像(通称:小枢機卿)」1519年)
宗教改革運動では、1525年にザクセン公ゲオルク(選帝侯ではない。アルベルティン・ヴェッティン家)が発起人となり結成されたカトリック諸侯の「デッサウ同盟」に加盟。その後も、カトリック側の重鎮として皇帝と行動を共にした。