デンマーク王妃イサベル(1501-1525)享年24歳
今から500年前の1515年、皇帝陛下の5人の兄弟姉妹のうち、
祖父マクシミリアン皇帝の進める政略結婚によって、
一番最初にハプスブルク家を離れたのがイサベルでした。
そして、一番最初にこの世を去ったのも彼女でした・・・。
1515年 デンマーク国王クリスチャン2世と結婚
1517年 国王の愛妾デューヴェケが病死
1518年 長男ハンス王子が生まれる
1520年 国王とスウェーデン貴族との対立、「ストックホルムの血浴」事件が起きる
長女ドロテア王女が生まれる
1521年 次女クリスティーネ王女が生まれる
1523年 枢密院がクリスチャン国王の廃位を決定、
国王・子供たちとともにネーデルラントへ亡命
1525年 病によりこの世を去る
神聖ローマ帝国の北の隣国であるデンマーク王国。
国王であるオレンボー家は、中世に結成された北欧3王国による
カルマル同盟の盟主として、ノルウェー、スウェーデン両王国の
国王も兼ねていました。
マクシミリアン皇帝は、帝国北辺の情勢を安定させるべく、
政略結婚によりオレンボー家と友好関係を築こうとしました。
1515年、イサベルは14歳で輿入れすることとなります。
本人の意向を伴わない政略結婚に年の差は付き物とはいえ、
夫となるクリスチャン2世は彼女より20歳も年上の34歳。
しかも、既にデューヴェケという愛妾がいたのでした。
このデューヴェケは、貴族ではないコペンハーゲンの一市民。
しかも、ネーデルラントからの移民商人の娘だったのです。
(皮肉にもイサベルと階級の違う同郷の女性!)
クリスチャン2世は市民階級に強い支持母体を持つ君主でした。
というのは、当時のデンマーク王国は貴族の力が非常に強く、
貴族の代表者で構成される「枢密院」が大きな権力を握っており、
国王と言えども彼らの特権的地位を認めざるを得ませんでした。
そのような中、前代のハンス国王は商業の発展で力を持ち始めた
コペンハーゲンなどの都市市民たちを味方に付けようと考え、
息子のクリスチャンを有力市民に預けて養育を任せるほどでした。
こうして市民階級の中で自由奔放に育ったクリスチャンは、
国王即位後、彼らに助言を求めるようになっていきます。
その中でも一番の頼りだったのがデューヴェケの母シーブリト。
当時の経済先進地ネーデルラント出身で博識のあった彼女は、
国王の政治顧問として宮廷に出入りするまでになったのです。
同時に国王は、娘のデューヴェケと関係を持つようになりました。
イサベルがやって来たのは、クリスチャンの国王即位の2年後、
まさにシーブリトの一族が重用された真っ只中だったのです。
宮廷内のこのような状況は次第に国外でも伝え知るところとなり、
ハプスブルク家内でも「イサベル王妃が冷遇されている」と
心配されるようになりました。
しかし、1517年、愛するデューヴェケは突然の病で亡くなります。
宮廷に出入りする市民層の活躍を快く思わない貴族たちの陰謀、
毒殺説(毒入りサクランボ)の噂が取り沙汰されました。
もともと気性の荒い性質だったクリスチャンはこれに激怒し、
噂の当人である貴族トーベン・オクセを処刑してしまいました。
事件を裁く枢密院が彼に無罪判決を下したにも拘わらず、
国王が独断で処刑を行ったため、貴族達との関係は悪化しました。
(ちなみにイサベル王妃も、貴族達と同様にトーベン・オクセの
助命嘆願を国王に行ったようです。)
同じ年、長年の同君連合に嫌気がさしていたスウェーデンが、
自分たち貴族の内から新しい国王を擁立して対抗し始めました。
当然ながらクリスチャンはこの動きを封じ込めるため、
軍を率いてスウェーデン王国内の反対勢力へ攻め込みました。
戦の末に反対勢力を制圧したクリスチャンでしたが、
1520年、歴史に名高い大事件を起こすこととなります。
謀反を起こしたスウェーデン貴族の罪を不問にすることで和睦し、
クリスチャンのスウェーデン国王戴冠式が行われたストックホルム城。
祝賀会の最終日、出席した貴族たちが広間に集められたかと思うと、
突然、兵士たちに捕えられ、処刑されてしまったのです。
丸2日にわたって80人以上が処刑され、多くの血が流れたため、
後に「ストックホルムの血浴」と呼ばれている事件です。
クリスチャンはこの事件を反対勢力制圧の仕上げと考えましたが、
かえって、生き残った貴族たちの間に独立の機運が高まりました。
また、自分に従わない貴族に対する残酷な仕打ちに恐怖したのは
スウェーデンばかりでなく、地元デンマーク王国内も不穏となり、
1523年、枢密院はついにクリスチャン国王の廃位を決定します。
イサベルは、国外追放となった彼に従い、3人の子供達を連れて、
デンマーク王国を離れることになってしまったのでした。
そして、身を寄せた先は、故郷ネーデルラントの地!
彼女にとっては懐かしいブルゴーニュ公国であっても、
ハプスブルク家にとって、転がり込んだ「暴君クリスチャン」は、
招かれざる客以外の何者でもありませんでした。
義兄カルロス皇帝や大叔母マルグリットから積極的な支援がなく、
ハプスブルク家に愛想を尽かしたクリスチャンでしたが、
再起を謀ってネーデルラント商人達との接触を重ねます。
その間、イサベルは亡命生活を支えるため、3人を育てながら、
金策に奔りましたが、やがて病に倒れ、この世を去ります。
イサベルの死後、3人の王子王女たちはハプスブルク家のもとに
引き取られました。そして、クリスチャンはついに支援者を獲得、
再びデンマークに上陸することに成功しましたが、叔父である、
新国王フレゼリク1世の計略により、捕囚の身となりました。
そして、残りの生涯を幽閉された城の中で過ごすこととなった
のでした。
若くしてこの世を去った彼女の生涯を見ていると、
愛人の所に入り浸りで正妻を顧みない国王に悩まされ、
強圧的な夫の政策が反発を招き、家族ごと国外追放に巻き込まれ、
亡命先の実家でも冷遇されるという、苦難の姿を連想します。
しかしながら、わずか10年ほどの結婚生活にも拘わらず、
3人の子供に恵まれ(夭折も含めるとさらに2人生まれている)、
最後まで国王に付き従った事実を考えると、そう、単純な構図
ではないのではないか?という気もしてきます。
当然ながら、彼女の本音を今は知る由もありませんが、
冒頭の肖像画を見ていると、悲劇のヒロインには似つかわしくない
波乱の生涯に真っ向から立ち向かおうとしているような、力強く、
しっかりとした眼差しを感じ取れるように思えます。
【参考図書】
*「デンマーク国民をつくった歴史教科書」彩流社 2013年
ニコリーネ・マリーイ・ヘルムス著 村井誠人・大溪太郎訳
*「デンマークの歴史教科書 ~デンマーク中学校歴史教科書
古代から現代の国際社会まで~」明石書店 2013年
イェンス・オーイェ・ポールセン著 銭本隆行訳