ボニヴェ侯ギョーム・グィフェ(1488-1525、享年37歳)
フランス王国の「海軍提督」(Amiral de France)。ボニヴェ提督として知られる。
ちなみに「海軍提督」は、フランソワ国王が名誉職として彼に授けた称号に過ぎず、
当時はジェノヴァ共和国のアンドレア・ドーリア艦隊がフランス海軍を担っており、
彼自身は海軍を率いることなく、生涯、陸上戦の経験しかなかったようである。
1516年、フランソワ国王により海軍提督に任命される。
1519年、神聖ローマ皇帝選挙でフランソワ国王選出の買収工作のため、帝国内に潜入する。
1521年、スペイン王国支配下のナバラ王国領内に侵攻し、フェンテラビーアを占領。
1524年、北イタリアに侵攻したが、「セージア川の戦い」でシャルル・ド・ラノワ率いる帝国軍に敗北。重傷を負う。
1525年、フランソワ国王とともにミラノ公国へ侵攻したが、「パヴィアの戦い」で討死。
【セージア川の戦いに於ける王国軍の敗北を伝える当時の日記】
「次の5月、ミラノを臨みたる我が軍勢と、皇帝軍との間に、戦闘が行われ、この戦闘に於いて、彼我の側に陣没する者夥しかりしが、我が軍にありても、数多くの者が殺戮され、とりわけ、バイヤール隊長が戦死し、百に上るその長槍隊兵士は悉く殺傷戦没せるが上に、また約四千人に達する騎兵及び歩兵が殺されたる旨の報知も到来せり。
提督も重傷を蒙り、ド・ラ・パリース殿の次弟にあたるヴァンデル殿も、また他の殿原も落命したり。」
(渡辺一夫著「泰平の日記(フランソワ1世治下のパリの一市民の日記)」より抜粋)
グィフェ家は代々ヴァロワ王家の重臣を務めてきた家系であり、
父である先代のボワシー侯ギョーム・グィフェはシャルル8世の養育係を務めた。
また、兄アルテュスは、シャルル8世・ルイ12世と続くイタリア侵攻に従軍の後、
父と同じくフランソワ国王の養育係を任され、やがて侍従長(グラン・メートル)となった。
このような経緯から、フランソワの6歳年長であるボニヴェ提督は、
国王が幼い頃から近習として仕えており、親しい間柄であったようである。
ちなみに、弟のアドリアンも王国の宮中司祭長を務め、後に枢機卿となっている。
彼は、国王の姉マルグリット王女の寝込みを襲おうとして返り討ちに合ったこと(*1)や、
国王の最初の愛人フランソワーズ・ド・フォワ(ロートレック子爵の妹)と三角関係にあったこと(*2)など、
フランス宮廷内の色恋沙汰に関して噂話に事欠かない人物でもあった。
宮廷内で頭角を現したブルボン元帥とは同世代のライヴァルだったらしく、
王母ルイーズ・ド・サヴォワが元帥に仕掛けた訴訟事件に関しても、
ブルボン元帥を落とし入れるため宮廷内で暗躍したようである。
武将としての経歴について、スペイン領内への侵攻作戦に成功した彼は、
敗退したロートレック将軍に替わってミラノ侵攻軍の将を任されたが、
一度は包囲したミラノを攻め落とすことが出来ず、軍隊を引き揚げる途上、
セージア川の渡河をめぐる戦闘で皇帝軍に敗北を喫している。
翌年、フランソワ国王のミラノ侵攻に従軍したが、パヴィアの戦いにおいて、
国王に進言した作戦が裏目に出てしまい、国王は帝国軍に捕まってしまう。
敗戦の責任を感じた提督は、敵軍に正面から突っ込み討死した(*1)。
*1 ギィ・ブルトン著/稲田晴年訳「フランスの歴史を作った女たち<第2巻>」中央公論社
*2 リュシアン・フェーヴル著/二宮敬訳「フランス・ルネサンスの文明」ちくま学芸文庫