神聖ローマ帝国皇帝マクシミリアン1世(1459ー1519)
またの名を「中世最後の騎士」。
カルロスの世界帝国の礎を築いた偉大なる君主。
ハプスブルク家の勢力拡大に心血を注いだ男。
行動力はあるが、単純で騙されやすいのが難点?
ハプスブルク家はもともとはスイスを故郷とした、
神聖ローマ帝国内の一地方貴族に過ぎませんでした。
その後、領土の中心をオーストリア地方に移し、
何度か神聖ローマ皇帝に選ばれることもありましたが、
帝国内で大きな力を持つことはありませんでした。
そんなオーストリア公が飛躍するのは彼の代からです。
彼の父フリードリヒ皇帝が取り決めたひとつの縁談、
それがすべての始まりだったのです。
「幸いなるオーストリアよ、
戦争は他の者にまかせておくがよい、汝、結婚せよ。」
1476年、彼は当時ヨーロッパ随一の財力を誇った
ブルゴーニュ公家の一人娘、マリーと結婚します。
北方ルネサンス華やかなりしフランドル文化に触れ、
マクシミリアンはアルプスの田舎から「世界」に目を
開かされたのでした。
しかし、世界への野望は戦いの時代の幕開けでもあり、
彼の困難もまた、ここから始まったのです。
彼の目指したのは、それまで形骸化していた皇帝の力を
復活させ、中央集権的な国家を作り上げること。
国内は諸侯が支配地を巡って争いを繰り返す戦国時代的
状態にあり、中でも7人の選帝侯が大きな権力を握って
いたのです。選帝侯とは、皇帝選挙の選挙権を持つ有力
貴族、聖職者たちのことで、それまで彼らは自分たちの
思い通りになる人物を権力基盤の弱い帝国諸侯の中から
選び出して権力バランスを図ってきていました。
ところが、マクシミリアンは彼らと真っ向から対立し、
皇帝の権限拡大のために力を注いだのです。
また、彼は周辺国に子供たちの縁談を次々持ちかけます。
息子フィリップと娘マルグリットはスペイン王家と結び、
孫達をポルトガル、デンマーク、ハンガリーの各王家に。
これがのちのハプスブルク帝国の布石となっていきます。
まさに家訓である政略結婚の体現者であったのです。
ところが、思い立ったら即行動、のマクシミリアン。
家臣達にろくに相談もせずになんでも決めてしまうので、
側近たちは相当振り回されたようです。
同時代を生きたマキァヴェッリの名著「君主論」中では、
彼は家臣に自分の考えを明かさず、しかも計画が明るみ
になったあとには周りの意見で内容が次々に変わる、と
いう側近の司祭の言葉(グチ?)で紹介されています。
。。。なんだか身近にいるダメ上司みたいです。
そんな愛すべき皇帝マクシミリアンですが、
彼がこだわった「皇帝」の地位も、実は不完全なもの。
代々神聖ローマ皇帝は選帝侯達により選ばれた時点では
まだ「ローマ人の王」に過ぎず、教皇の戴冠を受けて、
初めて皇帝となるのが習わしでした。
けれども彼は生涯、教皇とは国際情勢を巡り緊張状態に
あり、戴冠を許されるどころか、イタリア半島にすら足
を踏み入れることはできなかったのです。
しかたなく、彼はドイツ・イタリア国境の町で地元司教
による一方的な戴冠式を強行、「皇帝」宣言したのです。
実は「自称」皇帝だったのです!
故に晩年、彼は孫のカルロスが次の皇帝に選ばれるよう
尽力しました。存命中にはかないませんでしたが。。。
カルロスは苦労の末、教皇から戴冠を受けることができ
自称皇帝にはなりませんでしたが、それでもローマでの
戴冠式を挙げることはできませんでした。
カルロスは教皇から戴冠を受けた最後の皇帝であり、
弟フェルナンドが次の皇帝となるときからは、帝国内で
戴冠式が行われるようになりました。
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