ブルゴーニュ公女マリー(1457-1482)
カルロスの生まれた時にはすでにこの世を去っていたが、
フランドル宮廷の貴族たちに語り継がれた永遠のお姫様。
皇帝マクシミリアン最愛の女性。
フランス王家の封土でありながら、独立した一国家なみに
ヨーロッパに影響力を持ったブルゴーニュ公国。
ときのブルゴーニュ公シャルル・テメレール(向こう見ず、
突進公などとあだ名される。 フランス語:le Téméraire)
の一人娘マリーは、その美貌と公国の豊かな財力のために
周辺諸国の王家に狙われていまいした。
そんな中、公が娘の夫として選んだのは、神聖ローマ皇帝
フリードリヒの息子オーストリア公マクシミリアンでした。
当時ハプスブルク家はアルプスの貧しい地方貴族でしたが、
野心家の彼は娘の結婚を使って、「皇帝」の地位を狙って
いたのです。そのためか、超慎重派のフリードリヒ皇帝は
この縁談の結論を保留にしたままでいました。
ところが、1477年にシャルル公が戦死。
その混乱に乗じて、公国をフランス王国に取り戻そうと、
国王ルイ11世が軍隊を差し向けて来たのです。
一人残されたマリーが公国の主となりましたが、家臣達は
次々にフランス派に寝返り、彼女は孤立していきました。
彼女の継母である、亡きシャルル公の妃マルグリットは、
窮地を脱するため、保留の縁談を実行しハプスブルク家に
救援を求めました。
かくしてマクシミリアンは、白馬に乗った騎士として公国
を救うために駆けつけ、二人は結婚したのです。さらに、
彼はギネガテの戦いでフランス勢力の駆逐に成功、ここに
ブルゴーニュ公国はハプスブルク家のものとなったのです。
しかしこの一件を機に、カルロスの代まで続くフランス王
ヴァロワ家とハプスブルク家との因縁の争いが始まることと
なったのでした。
美貌の姫マリーと、白馬の騎士マクシミリアンの結婚生活は
幸福に包まれ、フィリップとマルグリットの二人の子宝にも
恵まれました。
しかし、結婚5年目の1482年に悲劇は突然訪れました。
夫と狩りに出かけた彼女は落馬事故によって25歳の若さで
この世を去ってしまったのです。
若く美しいまま伝説となってしまった公女マリー。
マクシミリアンは最期の時まで彼女の思い出を忘れることは
なかったと言われています。
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