1515年9月13日(本日よりちょうど500年前)、イタリア北部ミラノ近郊の小村マリニャーノにおいて、フランス王国軍とスイス傭兵団(ミラノ公国)が武力衝突しました。
<マリニャーノの戦いの経過>
6月26日 フランソワ国王がイタリア遠征の通達を出す(ミラノ公国奪回の意志を正式に表明)。
なお、遠征による国王不在中の摂政として、王母ルイーズを任命する。
7月12日 フランス王国南東部の都市リヨンに国王到着。
各地から続々と兵力が集結し、3万名規模の遠征軍を編成する。
8月上旬 王国軍のアルプス山脈越えが開始される。
先発隊はトリブルツィオ将軍隊、ブルボン大元帥隊。
8月14日 フランソワ国王を含む本隊がアルプス越えを開始する。
8月16日? 王国軍がアルプス越えに成功する。
アルプスの麓、ヴィラフランカに駐屯中のプロスペロ・コロンナ
(教皇軍・ミラノ公国側)が王国軍に不意を突かれ捕虜となる。
8月下旬 王国軍がミラノ公国付近を包囲する。
9月8日 スイス傭兵団(ミラノ公国側)と停戦交渉。ガッララーテ協約が締結される。
9月〇日 傭兵団の増援部隊が到着。ガッララーテ協約に同意せず。
傭兵団のリーダー、シオン枢機卿により出陣の演説が行われる。
9月13日 傭兵団がミラノを発ち、進軍を開始する。
迎え撃つ王国軍と、ミラノ近郊の小村マリニャーノで衝突する。
深夜に戦闘が一旦休止される。
9月14日 夜明けとともに戦闘再開する。
王国軍にダルヴィアーノ将軍(ヴェネツィア共和国・フランス王国側)が
率いる援軍が駆けつける。
傭兵団がミラノへ引き返し、戦闘終結。
10月16日 9月下旬からの約3週間にわたる包囲戦の結果、ミラノ公国降伏。
フランソワ国王をはじめ王国軍がミラノに凱旋入城を果たす。
カルロス皇帝の侍従長、シェーブル侯に関する記述について。
1515年、彼は、ブルゴーニュ公シャルルが成人し、正式に侯爵位に即位すると、
対立していたブルゴーニュ総督マルグリットをシャルルの後見から外し、
総督の地位も解いて、一見、シャルルの親政が開始されると見せかけておいて、
実権を握り始めます。
以下、シェーブル侯の教育(洗脳?)の一旦が垣間見える記述。
「カール(=ブルゴーニュ公シャルル)には、溺愛する母親の代わりに、自分を育ててくれる一人の政府高官がいた。そのド・シェーブル氏に励まされて、彼は15歳のときから毎日閣議を主宰し、たとえ真夜中でも届くとすぐに渡される公用文書の内容を開示した。こうして鋭い観察力で生来の明敏さをみがき、洞察力によって精神力を強靭にすることを学んだのだ。」
「フランソワ1世ーフランス・ルネサンスの王ー」ルネ・ゲルダン著 辻谷泰志訳 国書刊行会
真夜中の公文書チェックの話は以下にも記述があります。結構有名な話だったのか、それともゲルダン氏がミシュレの記載から引用したのでしょうか・・・
「公用文書と国家の正式文書の山が、彼の前に置かれている。到着するものはたとえ夜中であろうとここに届けられ、彼が目を通すのだった。王子の養育係だったド・シェーヴルは、自分自身が読むことができるように、それらの文書を王子が読んで、それから評議会に報告するようにした。かくして王子の教育は少しずつ政治へ移行する。権力がマルグリットから離れ、養育係のほうへと移ったのだった。」
「フランス史Ⅲー16世紀ルネサンスー」ジュール・ミシュレ著 大野一道責任編集 藤原書店
グイッチャルディーニ著の「イタリア史」においてもシェーブル侯はフランドル宮廷の事実上の支配者として書かれており、当時から周囲の認識は現代と同じだったようですが、前述の19世紀のフランスの歴史家ジュール・ミシュレの「フランス史」において、シェーブル侯のことがさらに以下のように書かれています。
「彼は、王子からどこそこの領地を横領するというようなことをする代わりに王子自身を取ったが、それはとりもなおさず、すべてを取ったということである。」
「政治家にとっての重要な資質、すなわち人間的感情からかけ離れた、乾いた心の冷徹さをことさら教えこんだ。(中略)若い君主はド・シェーヴル譲りの陰湿な沈黙をもって、母親代わりであった叔母をある朝突然退けてしまったのである。」
ブルゴーニュ公となった15歳から神聖ローマ皇帝(ローマ人の王)として戴冠する20歳までの治世は、シェーブル候による教育の賜物、やはり傀儡政権に過ぎなかったのでしょうか・・・
デンマーク王妃イサベル(1501-1525)享年24歳
今から500年前の1515年、皇帝陛下の5人の兄弟姉妹のうち、
祖父マクシミリアン皇帝の進める政略結婚によって、
一番最初にハプスブルク家を離れたのがイサベルでした。
そして、一番最初にこの世を去ったのも彼女でした・・・。
1515年 デンマーク国王クリスチャン2世と結婚
1517年 国王の愛妾デューヴェケが病死
1518年 長男ハンス王子が生まれる
1520年 国王とスウェーデン貴族との対立、「ストックホルムの血浴」事件が起きる
長女ドロテア王女が生まれる
1521年 次女クリスティーネ王女が生まれる
1523年 枢密院がクリスチャン国王の廃位を決定、
国王・子供たちとともにネーデルラントへ亡命
1525年 病によりこの世を去る
ベルナールト・ファン・オルレイ画「カール五世の肖像」1515年頃
遡ること500年、本日は皇帝陛下の15歳の誕生日!
1515年、陛下はブルゴーニュ公爵として即位。
いよいよ、歴史の表舞台に立つこととなる。
1月5日 ブリュッセルで即位式典
1月末 デスカンベルゼ侯ジャン・ド・ソヴァージュを官房長官に任命。
2月半ば アントウェルペンへ巡幸(以降、ネーデルラント領内の各都市を巡る)
*参照「鷲皇帝カルロス五世」有吉俊二著(近代文藝社)
2015年の年が明けました。
カルロス皇帝の歴史を辿る中で、いよいよ重要な年代が幕を開けます。
今より500年前の1515年1月1日、
カルロス皇帝の生涯のライヴァル「怒れるサラマンドル」が
前王ルイ12世の崩御により、フランス王位に就きました。
弱冠20歳の若き国王、フランソワ1世の誕生です。