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皇帝カルロス!

16世紀ヨーロッパに君臨した神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世ファンのブログ。

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ブルゴーニュ公シャルルが誕生!


ベルナールト・ファン・オルレイ画「カール五世の肖像」1515年頃

遡ること500年、本日は皇帝陛下の15歳の誕生日!
1515年、陛下はブルゴーニュ公爵として即位。
いよいよ、歴史の表舞台に立つこととなる。

1月5日 ブリュッセルで即位式典
1月末  デスカンベルゼ侯ジャン・ド・ソヴァージュを官房長官に任命。
2月半ば アントウェルペンへ巡幸(以降、ネーデルラント領内の各都市を巡る)

*参照「鷲皇帝カルロス五世」有吉俊二著(近代文藝社)




9年前に父フィリップがスペインで亡くなってから、
次代のブルゴーニュ公として帝王教育を受けてきたシャルル。
「カール五世」(白水社)の著者アンリ・ラペールは、
彼の教育に貢献した人物として3人の名前を挙げている。

サヴォワ公妃マルグリット・ドートリッシュ
ルーヴァン司教アドリアン・フロリゾーン
シェーブル侯ギョーム・ド・クロワ

1人目は父フィリップの妹、つまりシャルルの叔母である。
度重なる政略結婚により有為転変の人生を送ってきた人物であり、
24歳で3人目の夫サヴォワ公フィリベール2世に先立たれた後、
1507年に父マクシミリアンからネーデルラント総督に任命され、
シャルルを初め甥・姪たちの母親代わりとして養育にあたってきた。

2人目はネーデルラント随一のルーヴァン大学の教授であり、
後にスペイン王国の摂政、枢機卿、そして教皇となる人物である。
1504年からシャルルの家庭教師を務めていた彼は、
カトリック教会に対する批判的精神から当時盛んになっていた、
神秘主義思想「新しい信心(devotio moderna)」を支持しており、
カトリックに対する宗教観について多大な影響を与えた。

3人目はシャルルの養育係、侍従長を務めた人物。
古くからブルゴーニュ公国に仕える貴族、クロワ家の出身。
彼の帝王教育を一手に引き受けるとともに、その権力自体も掌握。
皇帝に選出される10代後半頃まで、政治の面においては、
シャルルはほぼシェーブル侯の言いなりだったと言われている。

さて、この3人が、それぞれの立場で教育を担ってきたのだが、
1515年にシャルルが正式にブルゴーニュ公に即位すると、
その関係性は新たな段階・変化を生むこととなった。

まず、マルグリットはシャルルの後見を外された。
彼女は政治的才能に優れ、父マクシミリアンの対仏政策を支持し、
ネーデルラント総督として外交手腕を発揮してきたのであるが、
シェーブル候を筆頭とする親仏派の貴族たちと次第に対立し、
シャルル公即位で総督の役は「用なし」となったとして解任された。

次に、アドリアン司教はスペインへ派遣された。
カスティーリャのイサベル女王の死後、
母フアナと共に王位継承者となっていたシャルルであったが、
アラゴンのフェルナンド国王はフアナを軟禁状態におき、
シャルルの弟フェルデイナントを後継者に、と目論んでいた。
しかし、63歳のフェルナンド国王の健康状態は芳しくなく、
王位継承問題がいよいよ現実のものとなるにあたり、
シャルルのスペイン国王継承が円滑に行われるよう、
「監視役」としてアドリアンに白羽の矢がたったのである。

こうして、シャルルに影響力のある2人が彼の元を離れ、
誰が力を得ることになったか?そう、侍従長シェーブル侯である!
官房長官に任命された、同じく親仏派貴族のソヴァージュと共に、
早速に宮廷内の権力を掌握し始めるのである。

ルイ12世とイタリア問題で争ってきた皇帝マクシミリアンが、
若きフランソワ国王の即位に警戒していたことなど意にも介さず、
1515年3月にはフランス王国との和平条約(パリ条約)を結び
シャルルはルイ12世の次女のルネ王女(4歳)と婚約した。
シェーブル侯の親仏政策の第一歩である。

これら周囲の思惑が渦巻く中ではあるが、
シャルルは「大人の世界」に踏み出していくこととなる。
最後に、即位から半年あまりに渡って続いた領内巡幸の祝祭について、
その絢爛ぶりを扱った「カール五世」(既出)の一文を引用する。

「(前略)カールはブリュッセルの広大な城に居を定め、
15歳になった彼の前に、栄光の時代の幕が開き始めた。
カールは、この世のものとは思えない豪華絢爛ぶりをくりひろげ、
民衆の歓声を浴びながら、すばらしい町々へ≪歓喜の入城≫を行った。
これはカールの最初の凱旋入城で、その後、皇帝は領有する国々の
主要都市へ一連の凱旋入城を行った。凱旋門、盛大な行列、荘厳な宗教儀式、
いつ終わるともしれない饗宴、こうしたことは当時の礼式の一部であった。
この貴族的で、同時に民衆的なお祭り騒ぎは君主への忠誠を表す一つの方法
であったが、芸術家たちにとっては、それは自己の才能を発揮する好機会であり、
また民衆にとっては、単調で苦しい日常生活を忘れる手段であった。
カール五世の時代の祝宴に関して、とかくの論議が行われ、その後、
まる一冊の書物が著わされたほどである。」

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