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皇帝カルロス!

16世紀ヨーロッパに君臨した神聖ローマ帝国皇帝カルロス5世ファンのブログ。

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父、フィリップ


ブルゴーニュ公フィリップ(1478ー1506)

カルロスの父。
神聖ローマ皇帝マクシミリアンとブルゴーニュ公女マリーの子。
歴代ブルゴーニュ公にはそれぞれあだ名がつけられましたが、
彼は「美男公」「美公」(フランス語「le Beau」)と呼ばれました。
28年という短い人生でしたが、カルロスを含めた6人の子をもうけ、
ハプスブルク家が政略結婚で欧州各国に力を得る基盤を作りました。

ブルゴーニュ公になったのは1482年、
母マリーが落馬事故により急逝したことによるものでしたが、
成人となる15歳までは父マクシミリアンが後見人となりました。
しかし、父は神聖ローマ帝国の統治のためドイツに居ることが多く、
フィリップの養育は公国の貴族たちに任されていましたが、公国の
貴族達はハプスブルク家による統治を嫌って、そもそもの主である
フランス王国との結びつきを強めようとしていました。
よって、彼自身も親フランス派の君主として育てられたのです。

1496年にスペイン王女フアナと結婚。
初めのうち若く二人は幸せな新婚生活を送ったといわれていますが、
彼はやがて持ち前の色男振りを発揮、女性の噂が絶えませんでした。

スペイン王家で嫡子が相次いで夭折、王位継承者としてフアナの
名が挙げられることになると、彼の心にはスペイン王位の野望が
芽生えることになります。
1501年、二人は王位継承権を王国議会に認めさせるために、
そろってスペインへ向かいました。
スペイン王位を得るためには、フランス王家の後ろ盾が必要だと
考えていた彼は、父マクシミリアンがイタリアの覇権を巡って
フランスと微妙な関係にあったにも関わらず、国王に謁見。
長男カルロスとフランス王の娘クラウディアとの婚約を決め、
陸路悠々とスペインへ向かったのでした。

その後、カスティーリャ女王イサベルの後継者としてフアナを、
さらには共同統治者として自分の名を認めさせることに成功。
ところが、世界の富が集まる華やかなフランドル宮廷とは違い、
レコンキスタの戦いを終えたばかりのスペイン王家の質実剛健で
質素な雰囲気が性に合わず、目的を達すると早々に帰国しました。
このとき次男フェルナンドを身籠っていたフアナは一人残され、
夫の浮気に対する不安から、精神異常の徴候が出始めます。

1504年にイサベル女王が薨去し、いよいよ王位継承が現実の
ものとなると、1505年に夫婦揃って再びスペイン入り。
しかし、女王が遺言によってフアナの摂政を夫フェルナンド王と
していたことから、王国が2派に分裂し緊張が高まりました。
大勢のフランドル貴族と軍隊を引き連れたフィリップでしたが、
フェルナンド王と会見、ひとまず争いは回避されました。
フアナはカスティーリャ女王フアナ1世として即位し、彼は共同
統治者として「カスティーリャ王フェリペ1世」を名乗りました。
が、1506年、彼はカスティーリャ領内の古都ブルゴス滞在中、
狩りの帰りに飲んだ冷水がもとで突然死亡してしまいます。
原因については病死とも毒殺とも、はっきりしていません。

カルロスは幼い頃から父と離れ離れの生活を送っていましたので、
父としてのフィリップから受けた影響はあまりなかったでしょう。
せめて「美公」の血がカルロスに影響していれば良かった。。。
残された肖像画からはあだ名ほどでない平凡な印象を受けますが、
ハプスブルク家に代々伝わる容貌の特徴はあまり見られないので、
そういう意味では「美公」だったのかも??

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